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2021年4月

2021年4月26日 (月)

毛鉤を巻く

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 ヤマブキの花が咲くとヤマメが瀬に出てくる。渓流釣りの世界ではそう言われている。先日、用事があって秩父に行った時、道端のヤマブキが黄色の花を満開にしていた。それを見て「ああ、釣りに行きたいなあ・・・」と思いながら車を走らせていた。

 

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 三度目の緊急事態宣言が発令された。5月11日までは出かけるのを控えなくてはならない。こうなると釣りに行きたい気持ちを毛鉤巻きに向けるしかない。
 今年、いや、来年使用するであろう分まで毛鉤を巻こう。フックはガマカツの12番、ボディは白のハックル、茶のエルクヘアーをウイングにしたブラウンエルクヘアカディスが唯一の毛鉤。

 

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 昔はフライフィッシングをやっていた関係で様々な毛鉤を巻いた。今でも毛鉤ボックスに沢山残っているが使うことはない。使うのは12番のブラウンエルクヘアカディスのみになってしまった。
 なぜかと言うと、これが一番釣れるから。40年以上釣りをやってきてたどり着いたのがレベルラインテンカラと言う釣り方。ドライフライで水面勝負の釣りになる。視認性の良さと浮きの良さでこの毛鉤にたどり着いた。実に良く浮く毛鉤で実に良く釣れる。
 

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 当然ながら条件が合わない時は釣れない。でも、無理に釣りたいとは思わなくなった。この毛鉤に出てくれる魚だけを相手にする。昔は釣るために様々な工夫をしたが、今はもうしない。
 割り切ると不思議なもので、毎回釣れるようになった。Uターンされることは毎回だが、それも魚との勝負だから諦めも早い。次へ次へと渓流を遡る。
 
 渓流を歩き、魚を釣って放流する。一尾でも釣れてくれれば満足する。渓流で遊ぶというか、魚に遊んでもらうというか、そんな1日が本当に楽しい。
 ああ、釣りに行きたい。行けないと思うと本当に行きたくなる。

 

 

 

 

2021年4月15日 (木)

ススキ箒をアップ

 

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 瀬音ホームページの山里の記憶コーナーに「ススキ箒」をアップした。取材した片桐正富さんは以前からの知り合いで、物作りにすごい熱意を持っている人だった。その物作りに集中する元は何なのかを知りたくてお願いした取材だった。
 

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 テーマはススキ箒としたが、実はスカリ作りの方が興味深い技術だった。片桐さんに言わせると、秩父のスカリは消滅の危機に瀕しているとのこと。まず材料の入手が困難になったこと。鹿の食害で材料のイワスゲが採れなくなってしまった。鹿の食べ残しは二十センチくらいの長さで、この長さでは縄をなう事ができない。次に後継者がいない事。体験教室などで教えたくても材料がないから出来ない。第一に細い縄をなえる人がいない事。スカリ作りはまず細く強靭なスゲ縄を何百メートルも作ることから始まる。これがものすごく高いハードルになっている。
 

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 正富さんは考えた。スゲ縄を機械で作って供給できれば誰でもスカリ作りに挑戦できるのではないか。今、スゲ縄を作る機械を試作中だ。最近やっと5ミリの太さの縄を作る事ができた。これを研究して3ミリの太さで作れるようになればスカリの材料が出来る。材料は鹿に食われるイワスゲでなく、アマスゲというスゲがある。なぜか鹿はイワスゲは食べるが、アマスゲの食害は少ない。今はアマスゲの生息地を探して採集するのが課題だという。
 

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 出来上がったスカリバッグが何十個も保管されている。その出来栄えは本当に素晴らしいもので、これが全部一本の縄でできているとはとても思えない。正富さんは作り方も工夫している。昔ながらの作り方ではなく、編み物を作る機械を参考に独自の工夫をしている。「昔ながらの作り方をしている人からしてみれば邪道って言われるかもね・・」と笑うが、出来栄えは素晴らしい。誰でもこのスカリバッグが出来るとすれば、これは素晴らしいことだ。スカリ作りは文化財だと思う。これを伝承できるとすれば正富さんの挑戦も大きな成果を上げることになる。
 

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 スカリは昔からの作り方をしている人に敬意を評して、今回はスカリでなく別のものでという正富さんのお願いで今回のススキ箒の取材になった。ススキの茎穂がこんなに長いものだとは知らなかった。新鮮な気持ちで取材に入れたのが良かった。ススキの穂を絵に描くのが難しかったが、伝えたいことは描けたと思う。誰でも出来そうな気がするが、地元の素材で役に立つものを作るという正富さんの物作り精神は誰でも持てるものではない。

 

 

 

 

2021年4月14日 (水)

会津鶴ヶ城と桜

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 12日と13日、会津に行った。鶴ヶ城の桜と飯盛山や武家屋敷を見て回った。ちょうど満開の桜が散り始める時で、最高の桜を堪能することができた。お城と桜はよく似合う。
 青空の下、満開の桜と風に流れる花びらの中を歩く爽快さ。お堀の水には花筏が浮かび、土手の桜を映している。素晴らしい石垣と桜のコントラストも美しい。
 人が思ったより少なく、ベンチも空いていてどこでも腰を下ろして休めた。どこのベンチからも桜とお城が見渡せる。素晴らしい空間だった。天守閣から満開の桜を見下ろすのも初めての経験だった。まるで桜の海に浮かんでいるような気分になる。
 

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 天守閣は五層で、様々な展示物がある。その歴史は悲劇の歴史で、戊辰戦争以降の展示に思わず足が止まる。ここに来た目的の一つが会津戦争の内容を現地で知るためだった。
 会津の歴史は悲しい。松平容保が京都守護職に任ぜられて以来、歴史の大波に翻弄され続けた。戊辰戦争から明治維新へと大きく流れが変わる中で、忠義に殉じた武士たちの生き様は様々な形で語り継がれている。白虎隊隊士の絵が並んでいる。その前に立ち尽くし年齢の数字を目で追い、自分だったらどうであったかと自問する。桜も青空も消えて、自分と向き合う時間が過ぎてゆく。
 

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 なぜ会津は最後まで抵抗したのか。他の道は無かったのか。書物で読んだ内容を思い返しながら鶴ヶ城の展示物を見る。会津戦争の解説で全て西軍と書いてあるのが印象的だった。新政府軍でも官軍でもなく西軍とだけ書かれている。会津の人にしてみればあれは単なる西軍なのだ。勝てば官軍とはここから来た訳だからと納得した。
 街のあちこちに「会津っ子宣言」の標語が掲げられている。その最後の一言が会津を表しているのではないかと思った。「ならぬものはなりません」・・・この一言があればこそ会津であり、この一言に殉じた人々だったのではないか。今の時代、この言葉を発して殉じる人がどれだけいるだろうか。日本人の心の中に美しいものがあるとすれば、会津の人々の心情はその一つであり、それゆえに会津への思いが続くのだと思う。
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 東山温泉で一泊し、翌日は武家屋敷と飯盛山を回った。対岸の山に山桜が咲く渓流沿いの宿は訪れる人も少ないのか静かで広い温泉を満喫できた。
 翌朝、近くの武家屋敷に立ち寄る。最後の家老・西郷頼母の屋敷を再現したもので、数々のテレビドラマの撮影なども行われたらしい。綾瀬はるか主演の「八重の桜」もここで撮影された。屋敷の中を散策するが、それぞれの部屋に置いてある道具類に目を奪われる。武具などより収納用品や台所用品の写真を撮りまくった。
 

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 お昼を食べて休憩し、飯盛山へ向かう。山の上まで動く歩道が設置されていて、それを使う。二人で500円なり。山の上に続く長く高い階段を見上げると流石にそこを登ろうとは言えない。
 飯盛山は全体が墓所になっていて、白虎隊自刃の場も墓所の一箇所に小さく祀られていた。山頂には広場と隊士の墓があり、神聖な空気に満ちていた。ここでも隊士一人一人の年齢に目が行く。中には14歳と刻まれたものもあり、戦死の文字に頭が下がった。日本人同士の争いだったのだと今更ながら人間の残酷さを認識した。飯盛山は墓所なので写真は撮らなかった。
 

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 最後に石部桜を見に行った。公園の駐車場から歩いて10分。畑の真ん中に巨大な桜が自生し満開の花を咲かせていた。解説文によると江戸時代から有名な桜で、飯盛山のさざえ堂と石部桜を結ぶ道があり、観光名所だったと絵図に描かれていた。
 畑の真ん中にこんな巨大な桜がある。不思議な感覚だったが見上げているうちに雨が降り出し、見学もそこそこに慌てて帰る始末だった。カミさんは傘を持っていたので無事だったが、私は傘を持たずに行ったのでびしょ濡れになってしまった。最後が春の雨だったのも印象的な会津の桜旅だった。

 

 

 

 

2021年4月 3日 (土)

もろこしまんじゅうをアップ

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 瀬音ホームページの山里の記憶コーナーに「もろこしまんじゅう」をアップした。トウモロコシは真夏に収穫し、軒下で乾燥させ、冬に食料として石臼で粉に碾(ひ)いた。ところが、このもろこし粉で作ったまんじゅうがマズかった。作りたては餡子のおかげでなんとか食べられたのだが、冷めるともう食べ物ではないようなマズさだった。今思い出しても、よくあれを食べたものだと思う。
 まんじゅうを作るまでもいろいろ大変だったのに、作った挙句に不味いと言われたのでは母親も情けなかったと思うが、こればかりは事実なので仕方がない。
 

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 昔のトウモロコシは家畜の飼料用のものだったと思う。品種改良もされておらず、ただひたすら硬いトウモロコシを栽培して食べていた。それでも、真夏に採りたてを茹でて食べるのは本当に旨かった。手伝った甲斐のある旨さで、これは楽しみの一つだった。
 収穫したトウモロコシは皮をむいて軒下の竹竿に結んで吊るした。どの家でも軒下には大量のトウモロコシがぶら下がっていた。どの家でも同じように干していたから、みんなあの不味いもろこしまんじゅうを食べていたのだと思う。今想像するとなんだか面白い。同年代の人と昔話をすると、必ずと言っていいくらいもろこしまんじゅうのマズさが出てくるのも面白い。
 

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 冷めたもろこしまんじゅうは囲炉裏の灰に埋めて焼いて食べた。囲炉裏の上で焼く方法もあったが、灰に埋めて焼いた方が旨かったように思う。全体が温まり、表面に少し焦げがあるくらいが旨かった。マッコ(囲炉裏の縁板)で叩いて灰を落とすのが常だった。もろこしまんじゅうといえば、囲炉裏とマッコが連想されるのは秩父の子供の共通したところだと思う。
 

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 ところが、この味はもう再現できない。不味いものの再現なんて意味はないのだが、材料が無いのだ。今のトウモロコシは昔とは比べ物にならないくらい美味い。山里の記憶の取材で「もろこしまんじゅう」を作ってもらって食べたが、全く違う味で実に美味かった。聞くと、昔のトウモロコシを栽培している人はなく、今はどんなトウモロコシでも美味いまんじゅうができるとのこと。昔の味を期待していた訳ではなかったが、少しがっかりした事を思い出す。ただ、匂いだけは同じだった。まんじゅうを割った時の匂いが懐かしい匂いだったので思わず「ああ、この匂いだ・・」と言葉に出た。
 

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 粗食といえば粗食だが、健康的だといえば確かに健康的だ。子供時代に自分の畑で採れたものだけを食べている訳だから体には最高だ。大人になって、病気もなく元気でいられるのは子供時代の粗食にあるのではないかと思う。過剰な栄養や甘さを体は欲しがっていたが、現実には何もなかった。粗食に耐えて野山を走り回っていたのだから元気な体に育つ訳だ。今から思うと、貧乏だった事が自分の体の基礎を作ってくれた訳で、貧乏に感謝しなければならない。

 

 

 

 

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