« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »

2021年3月

2021年3月31日 (水)

和同開珎

Img_5936

 30日、秩父に用事があって時間が余ったので和銅遺跡に立ち寄った。和銅遺跡は秩父市の黒谷にある。慶雲五年(706年)1月11日にこの黒谷で日本で初めて銅が発見され、朝廷に献上された。元明天皇はすぐさま元号を和銅とし、日本で初めての貨幣「和同開珎」を発行した。
 和銅発見を祝い、和銅元年2月23日に聖神社が創建され現在に至っている。聖神社の御神宝は13個の和銅石と朝廷から下賜された一対の和銅製の蜈蚣であり、数々の伝説が残っている。

 

Img_5938

 

Img_5939

 

Img_5940

 遺跡入り口にある聖神社に参拝する。多くの人が入れ替わり立ち替わり参拝に訪れている。御神宝は残念ながら見ることは出来なかったが、御朱印をいただく事ができた。
 参拝後、上流の河畔にある和銅露天掘り跡を見にゆく。駐車場に車を停め、標識に従って河畔を歩く。奈良の里に似た穏やかな山里の風景の中を歩く。山桜やレンギョウが咲いて、山の緑がわずかに滲むような春の景色の中を下る気持ちの良い散歩道だった。
 

Img_5948

 
 林の道を抜けると川に出る。河原に巨大な和同開珎のモニュメントがそびえ立っていた。ここから山道になり、息を切らして登ると採掘跡地に出た。縦に伸びる銅鉱脈を掘り採った跡地は青く滲んだ石が縦に伸びていて、ここが奈良時代の日本を支えた場所だと示している。
 思えば、この場所から奈良の平城京まで銅が運ばれたという壮大な歴史ロマンが目の前にある。しばし、立ち尽くして感慨に浸る。古代の人々がどうやって銅を採掘し、精錬し、運搬したのか。どうやって貨幣を鋳造し、どうやって運んだのか・・・その距離と時間を考えると呆然とする。
 

Img_5950

 
 たまたま里人が発見し、付近に帰化人がいた事から、これが銅だとわかったのだろうと言われている。新羅から帰化した金上无(こんじょうむ)が発見者だと言われているが、実際に発見者は別にいて、朝廷から派遣された金上无が確認したというのが本当のところだろう。
 銅山に生えると言われている花筏や一葉羊歯が和銅山にあり、そのような植物を目安に鉱脈を発見する知識を持った集団が秩父にいたというのが驚きでもある。秩父には多くの鉱山があり、その原点とも言える和銅鉱山の存在がさらに多くの技能集団を呼んだであろうことは推測できる。その後の多くの鉱山の発見や採掘の呼び水になったのだと思う。
 

Img_5951

 
 和同開珎の発行で奈良時代の律令制度は完成し、日本という国体を成した。その貴重な和銅を産出した地が秩父であった。奈良が好きで歴史書などを読むことも多いのだが、こうして実際の歴史に触れることは多くない。平城京と秩父を結ぶ一本の線、和銅の線がはっきりと見えた。
 天武天皇の悲願、持統天皇が夢見た大陸と対等に向かい合える国になること。それが元明天皇の代になって実現した。それほど和銅の発見は当時の日本にとって大事なことだった。
 秩父は古来から中央と密接に繋がっていた。もっともっと強調していい歴史だと思う。

Img_5957

2021年3月20日 (土)

私たちは忘れない3.11

Photo_20210320165801

 東久留米市の成美教育文化会館で行われたコンサートにシンガーソングライターの大須賀ひできさんがゲスト出演し、素晴らしい歌を披露してくれた。大須賀さんとはもう長く親交があり、コンサートはよく見に行っている。同じ東久留米市在住ということで親近感も持っている。
 今回のコンサートは表題のタイトルで開催され、大須賀さんから「面影画の事を話すので、何か展示できませんか」と連絡があり、本と紹介パネルを展示させていただいた。
 

Photo_20210320165702

 
 面影画の本だけでは展示が少ないので、32種類のアマビエ様カードを展示し、売り上げを寄付することにした。チャリティの活動にもなるし、頑張ってブースのセットを作成して持ち込んだ。
 会場は綺麗なホールで、大勢の人が訪れてくれた。入り口に検温スペースがあり、体温測定をする。ホールの座席は一つおきに使用禁止の紙が貼られており定員の半分しか入れていない。入場者は全員マスク着用で会話もしないようアナウンスされた。
 

Img_5832

 
 ブースをセットしてから会場入りし、歌を楽しむ。休憩時間と終了してからの時間が物販ブースは忙しくなる。休憩時間の後に第二部の大須賀ひできコンサート。大須賀さんが「何処かで」という歌の前に、陸前高田での面影画ボランティアの紹介を丁寧にしてくれた。自分のことを話してくれている事に何だか感動してしまった。ありがたい事だった。
 

Photo_20210320165701

 
 コンサート終了後、散開する人のごった返す入り口ブースで面影画の本を買う人やアマビエ様カードを買う人への対応をする。慌ただしい時間が過ぎるとあっという間に静かになる。人の波が引くのは早い。そして慌ただしく後片付けをする。簡単なブースだったのですぐに撤去できた。カードの売り上げを主催者に寄付し、大須賀さんに挨拶して家路に着く。東久留米市内の会場だったので10分もかからず自宅に到着。なんだかあっけなく忙しい一日だったが、何の問題もなく終わったことは素晴らしいことだ。

 

 

  

 

2021年3月18日 (木)

ブラックジャック降臨

Photo_20210318180101

 わが町にブラックジャックが降臨した。東久留米市は市政50周年記念事業として、駅前にブラックジャックとピノコの銅像を建立。さらに市内5箇所にキャラクターマンホールを設置した。
 手塚治虫先生は昭和55年から逝去されるまでを東久留米市で過ごされた。ご自宅は私が通っている小山テニスコートの近くにある。
 

Img_5824

Img_5819

 
 子供時代に手塚先生の漫画に薫陶を受け、人生の大きな部分を手塚漫画で成長して来た気がする。逝去された時はショックで何も手につかなかった。せめてもと青山葬儀所の葬儀に参列し、先生を見送った時の映像はまだ鮮明に残っている。
 漫画というより人生の手引書と言った方が自分にはふさわしい。社会の理不尽も、夢を持つことの大切さも、歴史に隠された真実も手塚漫画が教えてくれた。どんな学校の教科書よりも私にとっては素晴らしい教科書だった。
 

Img_5820

  小学校の時から漫画を描き始め、中学になると自分でストーリーを作ってストーリー漫画を描いていた。高校三年の時に美術部を退部し、漫画愛好会を自分で立ち上げ、初代会長に就任。二つ下の弟が二代目会長になった。弟はその後も趣味で漫画を描き続け、先日「秩父困民党」で集大成を迎える事ができた。私も変わらず絵を描いている。思えば、手塚先生の「漫画の描き方」という本に出会わなければこの人生はなかったと思う。本当にありがたい教科書だった。

Img_5821
 先生が亡くなった翌年、私は東久留米市に越して来た。湧水の川が綺麗な街だが、これと言って自慢するものがない静かな街で気に入っている。手塚先生がこの街で逝去された事を知ったのは越して来て随分経ってからだった。それ以来、自分がこの街を選んだ事を心の中で褒めてやっている。
 市政50周年はどうでも良いのだが、自分の街と手塚治虫先生が繋がっている事を世に言えるようになった事が嬉しい。
 

Img_5822

 
 それにしても、今日はよく歩いた。マンホールがどこにあるかわからないで歩き回るのだから仕方ないのだが、見つけた時は本当に嬉しかった。宝物を探しているような気分で楽しかった。

Photo_20210318180102

2021年3月16日 (火)

魚獲りをアップ

305

 瀬音ホームページ「山里の記憶」コーナーに「魚獲り」をアップした。子供の頃、川でよく遊んだ。家の下に岩殿沢が流れていて、子供の遊び場だった。川遊びのメインは何といっても魚獲りだった。昔の川は今よりもずっと水量が多く、魚もたくさんいた。山の形も集水域も同じなのに水量が違うのは何故なのか不思議だが、とにかく豊富な水が流れていて、綺麗な川だった。
 魚獲りの対象はヌマザコと呼んでいたアブラハヤとホンザコと呼んでいたウグイ、そしてカジカやドジョウだった。
 

Photo_20210316120806

 
 岩殿沢の本流は赤平川で、ダム下一キロくらいが川遊びのテリトリーだった。赤平川は学校の下を流れる大きな川だった。赤平川ではヤマメやアユ、タカベ(オイカワ)や本雑魚(ウグイ)、ギンタ(ギギ)など岩殿沢にはいない魚がたくさんいた。ギンタはヌルヌルしているし、掴むと刺すので嫌いだった。ヤマメは一度だけ見た。アユは見た事がなかった。
 

Photo_20210316120804

 
 昔の赤平川は河原が白くて美しい川だった。ダムが出来てから徐々に河原の草が増え、小学高学年の頃には草で埋まるような河原になってしまった。大人は、ダムが出来てから川の水が動かなくなって魚もいなくなったと言っていた。
 それでも川遊びは楽しかったし。魚もいっぱいいるように思えた。今から思えば、水量もずっと多く、綺麗な川だった。子供時代の川遊びの記憶が色褪せないのはきっと子供時代の楽しかった時間がそうさせているのだろう。
 

Photo_20210316120803

 Photo_20210316120805

Photo_20210316120801
 夏の強烈な日差しの中でパンツ一枚になって泳いだ事、流されそうになりながら懸命にあんま釣りをした事、みんなで石を運んで流れをせき止めてかいぼりをした事、手作りの篠竿で釣りをした事、箱メガネで川の中を見ながらカジカを探した事、何もかもが懐かしい子供時代の川遊び。
 

Photo_20210316120802

 
 初めてヤマメを見た時の衝撃、箱メガネでカジカを見つけた時のドキドキ、石の下に突っ込んだ指先に触る魚の感触、釣った魚を笹に刺して持ち帰る満足感。何もかもが懐かしく思い出される。

 

 

 

 

2021年3月 3日 (水)

秘密基地をアップ

Photo_20210303124203

 瀬音のホームページ「山里の記憶」コーナーに「秘密基地」をアップした。
 子供の頃、強く憧れていたのが「秘密基地」という言葉だった。自分だけの秘密基地を持ちたいという願望は田舎の子供にとって強烈なものだった。山奥の岩穴を探してみたり、橋のしたの隙間を物色したり、木の上に小屋もどきを作ろうとしたり・・色々やって見た。

 

Photo_20210303124501

 

 近所の家の芋穴がよく出来ていて、中に入って遊んだことがあった。すぐにバレて大目玉を食らったのだが、その時に洞窟の中から外を見た景色が忘れられなかった。いつしか洞窟を掘って自分だけの秘密基地を作るんだという願望が膨らんでいった。
 弟と二人で道具を持って山に行き、洞窟が掘れそうな場所を探した。人目につかず、崖になっていて、上に大きな木がある場所がいいと思っていた。木の下を掘ればしっかりした洞窟になるだろうと思っていた。まあ、子供の考えることはその程度までだ。
 

Photo_20210303124503

 
 これはいい、という場所を見つけて掘り始めた。意外なことに子供の力でも横穴は掘れた。何時間くらい掘ったか、中から入り口を見ると素晴らしい光景だった。憧れていた洞窟秘密基地のイメージに近かったのだから顔もニヤついていたと思う。
 ところがあっけなく夢は破れた。いきなり天井が崩れたのだ。考えてみれば子供でも惚れるような柔らかい土質なのだから当たり前の結果だった。入り口の補強とか天井の補強とか考えてもいなかった。土まみれになって弟と呆然として座り込んだことが昨日のように思い出される。
 

Photo_20210303124502

 
 大人になっても秘密基地願望は無くなっていなかった。それが実現したのが小菅の山小屋作りだった。間伐したヒノキを使ってログハウスを作ろうという計画は、自分の秘密基地作りにみんなを巻き込むための計画だったような気がする。
 小菅の山小屋で焚き火をして山仕事をして酒を飲み、肉を食らう。子供の時に秘密基地でやりたかったことを全部実現したのが小菅の山小屋だった。十八年間楽しませてもらった。今はもうないけれど、山小屋には感謝しかない。ああ、焚き火がしたい・・・

 

 

 

 

« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »